2011.09.11

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ペアである自分(資料編) スウェデンボルグ「宇宙間の諸地球」 (クレアなひととき 2011年01月28日)
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多くの地球があって、その上に人間がおり、霊や天使たちはその人間から来ている



エマヌエル・スウェデンボルグ「宇宙間の諸地球」(1758年)序章より


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(序章2-5)

多くの地球があって、その上に人間がおり、霊や天使たちはその人間から来ていることは、他生ではよく知られている。なぜなら、他の地球の霊たちと語って、そのことにより、世界が多く在ることを確信し、また、人類は一つの地球のみでなく、無数の地球から来ていることを知り、さらに彼らの資質、生活方法、神礼拝のいかようなものであるかを知ろうと、心理から愛へ願い、ひいては、それを用への愛から願っている者にはすべて、その願いがかなえられるからである。

私は私たちの地球の霊と共に、この主題について時々語ったのであるが、理解の鋭い者はすべて、その知っている多くの事柄から、多くの地球が在って、そこには人間があると結論することができようと言われたのである。なぜなら、その或るものは、大きさではこの地球にまさっている幾多の遊星のような、かくも大きな塊は、空ろな塊ではなく、また、単に太陽の周囲を廻転して、その乏しい光を一つ地球のためにのみ輝かせるために創造されたものでなく、そのユースはそれよりもはるかにすぐれたものであるに違いないということを、理性から結論づけられることができるからである。

神( the Divine )は、人類を存在させ、そこから天界を存在させようという、ただそれだけの目的から、宇宙を創造されたことを、人各々信じなくてはならないが、そのように信じる者はまた、地球のあるところ、そこに人間もいることを、必然的に信じざるを得ないのである。この太陽系の領域内の、私たちの肉眼に見える遊星は地球であることは、以下のことから明らかに知ることができよう。

すなわち、その遊星は太陽の光を反射しているゆえ、地的な物質の天体であり、望遠鏡でこれを見ると、その天体自身の焔できらめいている星としては現れておらず、暗い部分から種々に変化している地球として現れているのである。このことは、さらに以下のことからも明らかになるであろう。

すなわち、それらは、我々の地球と同じように、黄道帯を通って、太陽の周囲を運行し、そこからその地球の年や、春、夏、秋、冬のような一年の季節が生まれ、また、それらは我々の地球と同じように、その地球自身の地軸の周りを廻転し、そこからその日が生まれ、また、朝、昼、夕、夜のような一日の時が生まれているのである。

さらにその中のあるものには衛星と呼ばれる月があり、その月は、それらの地球の球体の周りを、ちょうど月が我々の地球の周りを廻転するように、時を定めて廻転しているのである。さらに、土星にはまた大きな光帯がある。なぜなら、それは太陽から非常に隔たっていて、その光帯はその地球に反射光線ではあるが、多くの光を送っているからである。

これらのものを知り、また、これらのものを理性から考える者は、これらはみな空ろな天体であるということができようか。

さらに、私は霊たちと語ったとき、以下のように言った。人間は、宇宙には地球は一つ以上あることを次のことから信じることができよう。すなわち、星空は無限に拡がっていて、その中の星の数も無限であり、その星の各々は、その所で、またはその世界で、一つの太陽であり、我々の太陽のように、色々な大きさを持っているのである。正しく考察する者はすべて以下のように結論する。

すなわち、このように無限の拡がりをもった全体は必ずや、創造の究極である一つの目的に到達する手段でなくてはならない。その目的は、神が天使と人間とともに住みたもうことのできる天界である。なぜなら、目に見える宇宙は、または無数の太陽である、かくも無数の星できらめいている天は、地球の存在と、その地球上の人間の存在に対する一つの手段にすぎず、その人間から天界が形作られることができるからである。

これらの事例から、合理的な人間は必然的に以下のように考えざるをえない。すなわち、このように偉大な目的のために用いられているところの、このように無限の拡がりをもった一つの手段は、一種族の人間のためにのみ、また、一つの地球のみから来た一種族の人間から発している天界のためにのみ構成されたものではない。

数千の、いや、数万の地球もそのすべてに人が満ちていても、これを小さな、ほとんど物の数ともされない無限にています神には、この地球は何ものでありえようか、と。