http://www.youtube.com/watch?v=I_y6paA1EP4
「この地下倉庫に通ってからもう 11年になる。
ここは僕の楽園だよ。
5年間レコード屋に通ってからやっと見せて欲しいとお願いしたんだ。
こんなに大きくて、手つかずの倉庫は見たことない。
ここは音楽という文化の倉庫だ。
一枚一枚のレコードが陽の目を見る時を待っているかのように感じるんだ。
目につくレコードには何か意味を感じるんだ。
見つけたのは運命かなって。
このレコードたちには一枚一枚に敗れた夢が詰まっている。
注目されなかったものが多い。
だからこそ、大切にしたいんだ。」
ステンスキーのこと
あと、同じ映画「スクラッチ」の中で私の好きなシーン。
白人で最初にヒップホップ・ムーブメントに参加して、「レッスン」という歴史的な「スクラッチ・レクチャー」的な作品のシリーズを、1980年代に発表したステンスキー ( Stenski )という人物が、映画スクラッチの中で何度も出ていて、「ヒップホップに出会った時の興奮」を語っています。
下のシーンは、彼がヒップホップのパイオニアの一人であるアフリカ・バンバータがクラブで「みんながすでに忘れていたような子供向けの歌」(クラッピング・ソング/1965年)を流して、それでみんなが踊り出したシーンを思い浮かべて話している場面です。
Steinski , Afrika Bambaataa, and The Crapping Song
これらが 1980年代に始まった「音楽の再生産」の現場のひとつであり、そして、それは日本も含めた世界中で進行していきました。
ちなみに、このステンスキーはヒップホップと出会ったことで、以降の自分の人生のすべてをヒップホップに捧げますが、彼の登場は、 DJシャドウやカット・ケミストなどの「白人DJ 」の登場の下地となります。
ステンスキーという人物は実は「白人のためのアメリカ音楽文化の救世主」でした。
「陰陽バランス」での「陽」の救世主です。
間違いないと思います。
ステンスキが 1987年にリリースした「ケネディ大統領暗殺」をネタにした軽快なスクラッチ曲「モーターケード・スペッド・オン」は、
・ステンスキの登場によるヒップホップの「拡散」の開始
でご紹介しています。
ステンスキのアルバムは iTunes から入手することができます。