覚醒の文化 ヒップホップ - Vol.1




インヴィシブル・スクラッチ・ピクルズが音楽世界に与えた震撼(4)



スクラッチ音楽アルバムの登場



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80年代から90年代は、アメリカではいくつもの独立系レコードレーベルが立ち上がりました。 中でも、この頃に創設された2つの独立系レコード会社、「ヒップホップ・スラム」と「ボム・ヒップホップ」は異質なものでした。 この2つのレコードレーベルについては、Hip Hop SlamとBomb Hip Hopという記事に書かれてありますが、メジャーヒットはまったくないレーベルですが、スクラッチとヒップホップの発展に大きく寄与しました。

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▲ ヒップホップスラム代表のビリー・ジャムとボム・ヒップホップのデイヴ・ポール。

ビリー・ジャムという人が代表の「ヒップホップ・スラム」は1980年代からラジオで攻撃的なヒップホップを放送していましたが、1991年に正式なレコードレーベルとなります。

そのヒップホップ・スラム社のビリー社長はひとつの大胆な試みを考えていました。

DJだけのアルバムを作ってみたい」と。

それまで、DJというのはあくまでラップの後ろで演奏をする人たちで、彼らが表に出たり、あるいは「DJ単独の活動」などはあり得ないことだったのです。同時期に、アメリカのアンダーグラウンド音楽雑誌「Bomb」を主宰していたデイヴ・ポールという人物も、同じようなことを考えていてました。

「DJを主体とするならどんなアーティストがいいだろう」ということになると、DMCコンテストで話題となっていたミックスマスター・マイクやQバートが主宰するインヴィシブル・スクラッチ・ピクルズがまず思い浮かばれました。また、ニューヨークではその頃、1995年のDMCチャンピオンになったロック・レイダーという人が所属する、「エクセキューショナーズ(X-ecutioners)」という黒人4のスクラッチグループが話題となっていて、そして、また、カリフォルニアでは白人4人による「スペース・トラベラーズ」というユニットが台頭していました。

デイブ・ポールは1995年に「ボム・ヒップホップ」というレコードレーベルを作り、彼らを一手に集めた「ザ・リターン・オブ・ザ・DJ」というアルバムを発売します。

そこにはインヴィシブル・スクラッチ・ピクルズの演奏も収められています。この「ザ・リターン・オブ・ザ・DJ」は現在まで10枚近くがリリースされている長いシリーズとなっていますが、これが世界で初めて「ラップが一切入らない、DJの演奏だけを集めたアルバム」となります。

また、「ヒップホップ・スラム」のビリー・ジャムは、ミックスマスター・マイクたちに「きみたちだけの演奏のアルバムを作ってみないかい?」と提案します。 もちろん「ヒップホップ・スラム」はメジャーな会社でもなく、資金も大したなかったはずで、自宅録音の一発録りでのライブ・レコーディングでの作品をリリースすることになりました。

その名は「ザ・シガー・フラッガー・ショウ(The Shiggar Fraggar Show)」。

シガー・フラッガーという謎の案内人が叫びまくる中で、インヴィシブル・スクラッチ・ピクルズが演奏をし続けるというもので、これは合計5タイトルが発売されます。 私は少し後ですが、これを偶然レコード屋で見つけて、その内容に驚いたものです。

「なんだ、この狂ったアルバムは」と。

ちなみに、私はこの時の録音風景など現存していないと思っていたのですが、なんと YouTube にあるのです。
ザ・シガー・フラッガー・ショウのVol.4 の冒頭の録音風景が映像で残っているのです。
映像は下のリンクで見られますが、 アルバムはこのままの音で発売されています。冒頭で喋っている得体の知れない人物のMCも含めて、このままです。



▲ Shiggar Fraggar Show Vol.4 のオープニングより。

この「ザ・シガー・フラッガー・ショウ」は当然ながら、売れなかったでしょうが、もともと、どの作品もメジャーを目指していないレーベルなので何の問題もなく、次々と類似した作品を発表していきます。この地道な活動が様々な人たちに「作品として聴くDJ音楽」を提供し、影響はさらに大きくなっていきます。

サンフランシスコで「アスフォデル・レコード(Asphodel Records)」というレーベルが1992年に創設されます。
後に、ローリング・ストーンズ誌の「世界でもっとも優れた独立系レコードレーベル・ベスト15」に選ばれることになるこの会社は、彼らスクラッチ集団をもっと大きくすることに成功します。

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