覚醒の文化 ヒップホップ - Vol.1




インヴィシブル・スクラッチ・ピクルズが音楽世界に与えた震撼(3)



スクラッチバンド「透明なスクラッチ・ピクルス」を結成した日



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1989年、ミックスマスター・マイクとDJ Qバートの友人たちでもあったフィリピン系アメリカ人たち数人で、「バンド」を結成します。
バンドといっても、彼らの楽器は全員がターンテーブルでした。
これは、少なくともカリフォルニアでは、初めて生まれたバンド形態でした(ニューヨークとシンシナティでも同時期にこのようなバンドが結成されています)。

当初、その名前は「シャドウ・オブ・ザ・プロフェット=予言者の影」(Shadow of the Prophet)としましたが、翌年、インヴィシブル・スクラッチ・ピクルズ(Invisibl Skratch Piklz =透明なスクラッチのピクルスたち)とします。メンバーは流動的でしたが一番上の写真に挙げた人たちがメインメンバーで、顔を見てもおわかりかと思いますが、全員がフィリピン系かあるいは東洋系の人たちでした。

彼ら、特にマイクとQバートは生活のほとんどをターンテーブルの練習に費やしていたようで、2001年の映画「スクラッチ」の中で、マイクは

「何日も何日もQバートと部屋にこもってスクラッチの練習をし続けた。一日一緒にいてまったく会話のない時もあったよ。スクラッチで話しかけて、スクラッチで答えるのが当たり前になってきたりしていた」

と言っているように、一種オタク的な熱中を続けるうちに、彼らのスクラッチ・テクニックは多分、その時点ではまだ世界では誰もしたことのないようなものにまで昇華していっていたと思われます。




DMC世界チャンピオン

1990年代に入り、彼らは一種の「DJコンテスト荒し」のような存在として注目を集め始めます。
最初の目的は、今でも世界最大のDJコンテスト、「DMC世界大会」を制覇すること。

この「DMC大会」は今も昔も多くのDJたちがメジャーになるための登竜門となっていますが、DMCというのは「ディスコ・ミックス・コンテスト」の略で(今ではこの正式名称を使うことはほとんどないと思います)、この正式名を見てもわかる通りに、もともとは「曲と曲をきれいに繋げたり人を乗せて踊らせることのできる腕」を競うためのコンテストで、ヒップホップ・ジャンルというよりは、ハウスのDJコンテストとしての側面が強かったと思われます。こちらのページに映像が残っている1988年から2008年までの優秀者の一覧がありますが、1992年から「このコンテストは変わった」のです。

1992年、ミックスマスター・マイクとDJ Qバートは、同じインヴィシブル・スクラッチ・ピクルズのメンバーであるDJアポロと3人で「ロックステディDJ」というチーム名でこのDMCコンテストに出場します。

「出場します」と簡単に書きましたが、当時は今ほどではなかったでしょうが、たとえば、現在でのDMC大会はどのように行われるかというと、まず全世界で国別の予選が行われて、その国の最終予選でチャンピオンになった者だけがアメリカの本大会への参加資格を得ます。アメリカでは地区ごとに何ブロックにわかれていて、そこで地区予選から勝ち上がらなければなりません。そして、最終的に本戦では観衆と審査員による審査が行われ、優勝者が決まります。 ミックスマスター・マイクとDJ Qバート、DJアポロの3人は、アメリカでの予選を勝ち抜き、「アメリカ合衆国代表という立場」で本戦へ駒を進めます。




▲ 1992年のDMCファイナル。左が DJ Qバート、中央がミックスマスター・マイク、右がDJアポロ。5分間の演奏のラスト90秒をピックアップしました。フル演奏はYouTubeにあります。


この時の本大会では、多くの人にとって、目の前で繰り広げられていることの意味がよくわからなかったかもしれません。すなわち、それまでのターンテーブルというものの役割は、「音楽を流すもの」だったわけで、DMCはその音楽のミックステクニックを競うコンテストであったのですが、彼らは「ターンテーブルで演奏している」のです。

ある者はドラムを担当し、ある者はリード楽器を「ターンテーブルから音を拾って」自由自在に演奏している・・・。

「目の前で何が起きているんだい?」

そう思った人も多かったようです。

彼らは圧倒的な投票多数で1992年のDMCで優勝し、世界チャンピオンになります。

しかし、スゴかったのはこの後で、翌年の1993年には、今度はミックスマスター・マイクとDJ Qバートの2人で出場して優勝し、1994年にもこの2人で出場して優勝。

彼らは3年連続でDMCを優勝してしまうのです。
この時点までは2年連続で優勝した人さえいなかったのに、3年連続で優勝。

DMC事務局はさすがに対応策を協議せざるを得なくなります。
「このままではあのちびっ子どもにDMCが占領されてしまう」という危機感もあったと言われています。
事務局は2人とコンタクトをとり、ある提案をします。


「もうDMCを引退しないかい?」と。

「きみちたちはもはや誰もが認める圧倒的なナンバー1なんだよ。しかし、きみたちがいると、他の誰もDMCで優勝できない事態に陥っているんだ」。

マイクとQバートは自分たちが若い人たちの障壁となっていることに気づいていませんでした。
そのことに気づいた彼らはあっさりとコンテストからの引退を表明します。
翌年から彼ら2人はDMCの正式な審査員となります。


マイクとQバートは確かにDMCでナンバー1でしたが、一般的な認知度を増していき、DJの世界とヒップホップに音楽的な影響を与えていくにはさらに数年を要します。

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