アフリカ・バンバータによる1973年11月12日のヒップホップ宣言
▲ ケヴィン・ドノバン。後のアフリカ・バンバータ
ストリートギャング団のヘッドが見た「祖国アフリカ」
1970年代、米国ニューヨークのサウスブロンクスにブラック・スペイズ(Black Spades)というストリートギャング団がありました。その頃のサウスブロンクスでは毎日のようにギャングの抗争が繰り広げられ、警察もお手上げの状態となっており、半ば無法地帯のような状態だったようです。
ブラック・スペイズはそのサウスブロンクスでも最大のギャング団で、そのヘッド(ボス)はケヴィン・ドノバンというアフリカ系アメリカ人の若者でした。
ケヴィンは彼自身がギャングだったにも関わらず、抗争を繰り返す黒人社会を心配していました。
「どうして俺たち米国の黒人はこんなになっちまったんだ?」
ある時、ケヴィンは論文コンテストで優勝します。
ケヴィンはその賞金で世界旅行に出てみようと思い立ちました
彼が旅行することになった大きな理由のひとつは、自分たちのルーツであるアフリカの黒人の生活を見ることでした。
「俺たちの先祖のアフリカの黒人はどのように暮らしているのだろう。米国の黒人のようにひどい生活なのだろうか」と。
そして、彼はアフリカに渡ります。
そこで見たのは、自分たちの風習と文化に則って、貧しいけれど、豊かに暮らしているアフリカの黒人たちの姿でした。生き生きとしたアフリカの黒人たちの姿はケヴィンに大きな感動とショックを与えます。
「俺たちアフロ・アメリカンも"独自の文化"があれば変わることができるんじゃないだろうか? 」とケヴィンは強く思います。もともと、ケヴィンは十代でギャング団を束ねていたほどリーダーシップがあり、「あのワルどもを少しいい方向に導けるのではないか」と、米国で自分が先頭に立って行動に出ることに、アフリカの大地で決めたようでした。
ケヴィンは世界を旅行した後、1973年に米国に戻ります。
自分の名前を「アフリカ・バンバータ」(Afrika Bambaataa)と変え、同時にギャング団ブラック・スペイズのギャング活動を終了し、団体の名称を「ユニバーサル・ズールー・ネイション」(Universal Zulu Nation)と変更。
そして、1973年11月12日に宣言をします。
「私たちアフロ・アメリカン(アフリカ系アメリカ人)はこれからアメリカで新しい生活スタイルと文化(カルチャー)を持つ。私はそのカルチャーを"ヒップホップ"(Hip Hop)と呼ぶことにした。我々黒人は意識改革をしなければならない。暴力のエネルギーをカルチャーに向けよう」
と。
以後、30年かかってどんどんと文化の浸透度を深めていくヒップホップという文化の誕生の瞬間でした。
この言葉からもわかる通り、ヒップホップというのは音楽ジャンルの名前ではありませんでしたが、バンバータと元プラックペイズの多くがDJや音楽家になったこと、あるいは1982年にバンバータ自身がプラネット・ロックというエレクトロファンクのヒットを飛ばしたことで、その後はヒップホップというのは音楽ジャンルのイメージが強いです。私もそのように使っています。
ヒップホップは生活スタイル全般を指す言葉ですが、具体的には、ラップ、DJ、ブレイクダンス、グラフィティ、そしてファッションを指していると思います。しかし、もっとも大事なことは「ヒップホップ的な精神」です。つまり、感情を暴力ではない表現方法で表すということです。
ストリートの表を背広姿で歩く白人たちに言いようのない感情を抱いてストリートの裏道にいた黒人たちは、次第に白人文化への微妙な感情や興味がなくなくなっていき、自分たちの同胞であるアフリカ系アメリカ人によって作られたこのヒップホップという文化に夢中になっていきます。
米国に、アフリカから奴隷として黒人が連れてこられてから百数十年。
やっと根本的に彼らを文化的に白人から解放するキッカケを作ったのがヒップホップです。
奴隷解放宣言でも政治運動でも真からの解放を獲得することができなかったアフリカ系アメリカ人が精神的に解放された瞬間だとも言えます。
▲ 2002年のドキュメンタリー映画「Scratch」で当時の様子を語るアフリカ・バンバータ。下にも日本語訳を書いておきます。最初に出てくる大柄の男性がアフリカ・バンバータ。次に出てくる痩せた黒人男性は最初のヒップホップDJともいわれる、ジャジー・ジェイ。
バンバータ 「ここがヒップホップ発祥の地、サウスブロンクスだ。またの名を「神の家」、あるいは「リトル・ベトナム」といった。昔はギャングの抗争が多くて、警察もお手上げだった。黒人たちの意識改革が必要だった。ギャングたちのエネルギーを良いほうに導くために「ユニバーサル・ズールー・ネイション」を作ったんだ。」
ジャジー・ジェイ 「バンバータは、彼がギャング(ブラック・スペイズ)のヘッドだった頃に、実際にアフリカを訪れて、黒人の暮らしぶりや文化を体験し、そのコンセプトを生かそうと決めたのだそうだ。」
バンバータ 「俺たちはストリートのいろんな奴らを組織し始めたんだ。Bボーイやラッパーたちをひとつのカルチャーに束ねたんだよ。」
ジャジー・ジェイ 「ブレイクダンスみたいに刺激し合い発展した。俺もやってたよ。みんな刺激されたろ?」
ジャジー・ジェイ 「バンバータは、彼がギャング(ブラック・スペイズ)のヘッドだった頃に、実際にアフリカを訪れて、黒人の暮らしぶりや文化を体験し、そのコンセプトを生かそうと決めたのだそうだ。」
バンバータ 「俺たちはストリートのいろんな奴らを組織し始めたんだ。Bボーイやラッパーたちをひとつのカルチャーに束ねたんだよ。」
ジャジー・ジェイ 「ブレイクダンスみたいに刺激し合い発展した。俺もやってたよ。みんな刺激されたろ?」
2000年頃からは、アフリカ・バンバータはさかんに「他の惑星に興味がある」と言い続けていて、「いろんな惑星の人々の生活を見てみたい」と言っています。もしかすると、次のバンバータの目標は「宇宙人たちの意識改革」なのかもしれません。
» Vol.2 ステンスキの登場によるヒップホップの「拡散」の開始へ。