覚醒の文化 ヒップホップ - Vol.1




ロック・イット ( RockIt ) の衝撃



1983年の「スクラッチ」の伝導






▲ ハービー・ハンコック「ロックイット」。1983年のグラミー賞受賞コンサートより。スクラッチを演奏しているのは、グランミキサーDXT。


2001年に「スクラッチ」というタイトルのドキュメンタリー映画が公開されました。 これは主にヒップホップなどで使われるレコードをコスッて音を出す技法のスクラッチというものだけに焦点を当てた異質のドキュメンタリーでしたが、大変によくできた映画でした。(字幕がないものでしたら、YouTubeに全編アップされています)

この映画では、過去や現役のDJや音楽関係者にインタビューを続けるうちに、ヒップホップの歴史がアフリカ・バンバータと彼の組織したユニバーサル・ズールー・ネイションにあり、そして、スクラッチを世に広めた決定的な要因は、1983年のヒット曲、「ロック・イット」にあるという結論に至ります。

この映画に出てくる以下の人々のすべてが「ロックイットの影響でスクラッチを始めた」と語っています。
全員がその後のアメリカのスクラッチやターンテーブル文化を牽引する人々です。

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・ミックスマスター・マイク(1992年にDMC世界チャンピオンになったフィリピン系アメリカ人)


・DJ Babu (バブー)(ターンテーブリズムという音楽ジャンルを創設したフィリピン系アメリカ人)


・DJファウスト(初期にスクラッチのソロアルバムを発表した人)


・カット・ケミスト(最初の白人DJであるスタインスキーと活動を共にした人)


・DJ Qバート(現在でも世界ナンバー1のDJとして名高いフィリピン系アメリカ人)

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です。

このすべての人は黒人でありません
そして、このことが「革命」なのです。

今までのこのシリーズで書きました通り、ヒップホップも、またスクラッチも、それらを作り出したのはズールー・ネイションなどの流れを組む、主にニューヨーク近辺の黒人たちで、実際にこの「スクラッチ」という映画にも初期ヒップホップの発展に関わった、たくさんの黒人が出てきます。また、「ロック・イット」での曲の中でスクラッチを披露していたのは、グランミキサーDXTという黒人でした。

そして、この説明自体が「衝撃」という言葉に結びつきます。

すなわち、それまでニューヨークの狭い範囲でだけ流行していたパーティ音楽技術の「スクラッチ」やターンテーブル操作が、この「ロック・イット」のグラミー賞受賞コンサートで、全米数百万人に知れ渡ることになり、そして、ニューヨークの黒人以外の多くの人々を魅了し、感化し、その後、ヒップホップ文化がアメリカのあらゆる人種の中に浸透していくキッカケを作ったのです。

ちなみに、この「ロック・イット」自体はヒップホップではありません。 60年代にマイルス・デイビスと音楽活動をしていたジャズ・ミュージシャンの大御所だったハービー・ハンコックが、初めて電子音楽の制作に挑んだ意欲的なアルバム「フューチャー・ショック」に収められていたものからシングルカットされ大ヒットしたものです。(ロック・イットのプロモはこちら。理由はわからないですが、このプロモは後にアメリカではテレビ放映が禁止されました。)

なので、ハービー・ハンコック自身がまさか自分のした仕事が「ヒップホップの世界的普及に大変に貢献した」ことなど予測しなかったでしょうし、もしかしたら、今でもそんなことは考えていないと思います。しかし、正統派ジャズ・ミュージシャンのひとつの実験的な作曲の試みと、「ニューヨークのヒップホップDJを参加させてスクラッチをさせた」ことが、ヒップホップの発展に異常とも言える貢献をしたのは事実です。

私はこの不思議な関係を2002年の映画「スクラッチ」公開時に知ったのですが、しかし、最近になって、また新たな感銘があります。

それは「世の中は一見関係のないものたちが相互に影響し合って、後の世の中を築いている」ということです。

ハービー・ハンコックがいなければ、今のヒップホップの発展はなかったかもしれないという事実。そして、何よりも「与えたほう」のハービー・ハンコックやグランミキサーDXTだけではなく、「受けるほう」、つまり、ミックスマスター・マイクやQバートたちのように、それを見て高いインスパイアを受けた人たちがいた、と。

すべての人が同じようにこの曲のスクラッチに感動したわけではなく、「受ける心があった人たち」がいたのです。

一般的に世の中では、常に「与えるほう」だけを評価するものです。
たとえば、教祖とか偉大な音楽家とか作家とかです。
しかし、それらすべてに「受け手」がいなければ成立しなかったという事実につき当たるのです。

要するに、「感動させるもの」が生まれる前提は「感動する側」が必要だということに最近気づいたのです。
なので、偉大な作品や人々がこの世に出てくるということは、「受け手がいた」ということです。
ここに大衆という存在の偉大さを見るのでした。

さて、実はこの「ロック・イット」に影響された人たちの間で、もっとも重要なのは「アメリカ系フィリピン人コミュニティ」だと私は考えています。

なので、次はこのことについて書こうと思っていますが、ものすごく長くなるかもしれません。
なぜなら、私がこの「スクラッチの発展に携わったアメリカ系フィリピン人」たちの大ファンだからです。
本を一冊くらい書けるほどですが、なるべく簡潔にまとめてみたいと思います。

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▲ ロック・イットに刺激されて、1989年に活動を開始した、フィリピン系アメリカ人によるスクラッチ音楽集団「インヴィジブル・スクラッチ・ピクルズ」( Invisibl Skratch Piklz )。彼らが表舞台に出てきた1992年がヒップホップの第二革命の始まりと私は理解しています。


» Vol.4 インヴィシブル・スクラッチ・ピクルズが音楽世界に与えた震撼へ。