覚醒の文化 ヒップホップ - Vol.1


インヴィシブル・スクラッチ・ピクルズが音楽世界に与えた震撼(2)



マイケルとリチャードが受けた天啓



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1980年代、サンフランシスコにフィリピン系アメリカ人の2人の少年がいました。

ひとりは、リチャード・キテヴィスという名前の、身長は160cmにも満たない小柄な少年でした(彼は大人になった今でもそのままの身長です)。後の本人のインタビューでは、学校での成績も最悪で、「全部、Dマイナスだった」と語っています。私はアメリカの成績表がどんなものかは知らないですが、全部Dマイナスというのは相当悪かったのでしょう。音楽とゲームと宇宙人以外にはあまり興味がなかったとのことです。

もうひとりは、マイケル・シュワルツという少年。
シュワルツという名字を持った彼は、父親はドイツ人で、母親がフィリピン人でした。

2人とも少し変わっている少年ではあったけれど、特に何かをするでもなく日々は過ぎていきました。
自分たちが本当に求めているものにはまだ出会っていなかったようで、日々呆然と過ぎていったようです。

1984年、アメリカのポピュラーソング賞の最高峰、グラミー賞の発表がありました。
その年の受賞曲は、ハービー・ハンコックのロック・イットでした。 ロック・イットはすで世界中でヒットしていたので、音楽好きな少年たちはそれがどんな曲かは知っていましたが、曲の随所に入っている「シュコシュコ」としたサウンドが何なのかはわかりませんでした。

グラミー賞受賞のコンサートで、ハービー・ハンコックの「ロック・イット」の演奏が始まりました。

そこで見た光景が後の彼らの人生の進路を決定することになります。

そのコンサートでは、ステージ上で、グランミキサーDXTという当時ニューヨークのクラブでDJをやっていた人物がターンテーブルの上に手を置き何かをしているのでした。

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彼がレコードの上の手を前後に動かすと、あの「シュコシュコ」とした音が出ていること気づいたのです。


「あのサウンドはターンテーブルで出していたんだ!」


マイケルはその時にすでに「オレは将来これの達人になる」と決めたと後のインタビューで語っています。

詳細はわかりませんが、翌日以降、マイケルやキテヴィスたち、また彼らの付き合いのあるフィリピン系アメリカ人の友人たちは毎日その「スクラッチ」と呼ばれるDJ技法の話に熱中していたはずです。しかし、彼らの多くは裕福ではなく、全員がターンテーブルを手にするのは1989年までかかります。

マイケルとキテヴィスは「ぼくたちはこれから音楽家になる」と決心して、それぞれ自分のミュージシャンとしての活動名を決めました。 ターンテーブルを手にするまではテープデッキで音を切ったり貼ったりして音楽を作っていたマイケルは、「ミックスの達人」というニュアンスで、ミックス・マスター・マイク(Mix Master Mike)という名前に。パソコンとゲームが好きだったキテヴィスは、1982年のアーケードゲームの「Q Bert」から名前をもらい、DJ Qバートとしました。

後にDJスキルで世界を席巻することになる、ミックス・マスター・マイクとDJ Qバートがここに登場したのでした。

2人とも「宇宙がスクラッチに導いた」的なニュアンスの発言をしていて、彼らとロック・イットの出会いは天啓のようなものだったのかもしれません。

» Vol.6  スクラッチバンド「透明なスクラッチ・ピクルス」を結成した日へ。