私は20世紀のパンク少年だった


関西での音楽事変1979



この項では、「黒点とパンク」ということについて、特に、日本でのことを中心に書いていましたが、この「黒点とパンク」シリーズの最後ということで、今回は、1979年の無軌道の最大爆発地点であった関西パンクシーンを。

下に貼った曲は、現在、芥川賞作家である町田康さんが1979年に「INU」というバンドで東京・渋谷の「屋根裏」というライブハウスで初めて行ったライブがレコードとして発売された時の音源です。「ガセネタ」という曲。下に多少、歌詞(アジテーションの部分)を興してみましたので、どうぞ。




INU - ガセネタ

オレはお前らを楽しませるためだけに
大阪からわざわざ東京まで出てきたんちゃうんじゃ!

何が屋根裏じゃ、ふざけやがって!

リザード?
S−KEN?
あんなもん何もおもろないんじゃ、アホ!
お前らわかってんのか?
リザードなんて聴くな!
東京ロッカーズなんておもろない!

オレはリザードと共演した
モモヨ?
あんなもんただのオッサン好きのアホやないか!

キミ、灰皿どこ?
なめとんのか、アホ!
なめとったら、どつかれるぞ!

オレはお前らを楽しませるためだけに
大阪からわざわざ東京まで出てきたんちゃうんじゃ!

どつけや!
しょーもないおもうたらお前らもどついたらええ!
このあほんだら!

(後略)


この時、町田町蔵、まだ、17歳。
セックスピストルズに影響されて「腐れおめこ」(このバンド名自体が無軌道)というバンドを結成したのはまだ16歳の時。その後、バンド名をINUとして、INUは関西パンクを代表するバンドとなり、1981年にはメジャーデビュー。

1970年代の後半には、東京では後にニューウェーブシーンと呼ばれることになる、どちらかというと、比較的、音楽的にまとまった(整合性のある)パンクや後のテクノポップといったものの萌芽が生まれていました。フリクションやリザードといった、現在まで続く日本のロックの礎を作った人たちや、そして、後に P-Model として世界に「日本製テクノロックの衝撃」を伝える平沢進はマンドレイクというプログレバンドを結成したりしていました。

東京圏のロックの特徴は「比較的、理性の上での活動を行っていた」ということは言えたと思います。それに比べると、1979年〜1980年頃に関西圏内で芽生えたアンダーグラウンドバンドには「カオス」を感じさせるものも多かったです。名前だけいくつか挙げておきます。YouTubeなどに音源があるものはそこにリンクをしておきます。


アーントサリー
ウルトラビデ
ほぶらきん


上の町田先生の「ガセネタ」という曲は、内容の通り、「東京のロックシーンはつまらない」ということを言っているものでした。

まあ、実際にどちらがいいとか悪いとかはわかりませんが、町田さんはその後も順調にキャリアを積み、今は作家として、そしてモデルとしても活躍しているのだそうです。私は小説は読まない(中学生の時に読むのをやめました)ですので、小説の作品のほうは知らないですが、INUのファーストアルバムは、若い時の愛聴アルバムのひとつでした。

町田さんの詩と叫びのカオスを、作曲家でありギターであった北田昌宏のメロディアス曲調で包んでいく、あの素晴らしい過程はその後の日本のロックではちょっと見られないものではなかったでしょうか。私は INU の北田昌宏の曲作りは日本のロック史に輝くものだと思っています。

いずれにしても、「黒点増大期が人を意味なく燃え上がらせる」のだとしたら、この1979年前後の関西パンクシーンはまさにそのままの光景だったと言えます。

アーントサリーのPhewも最近のインタビューで、「具体的な目的があるわけではなかった」と言っていました。

phew-2009.jpg

YouTube にある最近行われたと思われる Phew のインタビュー。

関西の古風なお嬢様が「日本のパティ・スミス」などという冠で呼ばれるようになり、女性パンクのトップにまで登り詰めた図式は理屈だけでは理解できないところはあります。

さて、今(2010年1月)も、すでに太陽黒点は増大期に入っています。
「自分でも理由がわからずに」黒点に背中を押される人がこれからたくさん出てくると思います。

皆様もこれからに対しての準備はできていますか?