レイモンド・スコットが封印を解いた天使のラッパ - Vol.3

レイモンド・スコットのキャリア(中盤)


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歴史の中で少しずつ叶えられている「神様たちの夢」

1946年に、「マンハッタン・リサーチ社」というエレクトロニクスの会社を設立し、それまで米国大衆音楽のトップミュージシャンだった渦中で実験的な「電子音楽」に着手し始めたレイモンド・スコット。

ヒットメーカーだった彼がその頃もしかすると夢見ていたかもしれないこととして、「いつかこんな電子音楽やサンプリング音楽が米国のヒットチャートを賑わすといいのになあ」という夢想だったかもしれません。

思えばかなう。

レイモンドさんの夢はそんなに長くかからずに実現しています。
実現したのはイギリス人で、時は 1984年のことでした。

それは、レイモンド・スコットがニューヨークに電子音楽のスタジオを設立してから約 40年後のことでした。時間がかかっているように見えても、人類史の中での 40年だと考えると「あっという間」です。

ある種の夢は確かに実現します。

その夢を実現したのはイギリスのバンド「アート・オブ・ノイズ」( The Art of Noise )でした。スタジオミュージシャンの共同体プロジェクトで始まった彼らの音楽仕事ですが、彼らは「ほぼ100パーセント、サンプリングの音を使用して」ダンスミュージックを作り始めます。

1984年に実験ダンス曲の最初となる「ビートボックス」という曲でのデビューをはたし、その年の米国ダンスミュージック部門で1位を獲得。同年、英国チャートで8位となり、1986年にはピーター・ガンという曲(往年の米国のテレビドラマの主題歌のリメイク)で米国グラミー賞を受賞します。

その 1984年に全英ヒットチャートで8位となった「クローズ( Close )」という曲のライブの様子を30秒ほど。全編はこちらなどにあります。


アート・オブ・ノイズ/クローズ (1984年)



山と積まれたコンピュータと機械類とモニター。
その下のキーボードとシンセサイザー。

これが当時は新しくて、そして「その後すべてこれになっていく」ダンス音楽の風景のひとつです。

エレクトロニクス技術の変化で楽器やコンピュータがどんどん小さくなっていくだけで、今でも基本的に多くのダンスミュージックはこのように演奏されています。

あるいは、ライブなどでミュージシャンがノートパソコンで演奏する風景も特に珍しくなくなっています。

今回は、前回に続いて、レイモンド・スコットさんの年表の「2」です。

ニューヨークに「マンハッタン・リサーチ社」を設立してからどうなるのか。
私も訳しながら初めて知るレイモンドさんの歴史なので、ドキドキいたします。

2回にわけてと思っていたのですが、予想以上に長く、3回にわけます。
今回は中編で、レイモンドさんがマンハッタン・リサーチ社を設立した 1946年から、1957年までです。

その翌年、1958年に米国 NASA は、宇宙空間に衛星を投入し、「宇宙時代」の幕が開きます。

(ここからです)






Timeline (compiled by Jeff Winner)

レイモンド・スコットのタイムライン

1946年から 1957年まで
 ジェフ・ウィナー著

1946年 37歳。マンハッタン・リサーチ社を設立。

同年、エレクトロ音楽のための「オーケストラマシン」( The Orchestra Machine )の米国の特許を公表。同時に電子音楽のための「トーキング・アラーム・クロック」( The Talking Alarm Clock )の特許を公表。

1947年 38歳。新しいバンドを結成し、ツアーをを行う。全国ラジオショーを1949年まで続ける。

1948年 39歳。エレクトロ機械式音響効果音発生機『カーロフ』。

同年、第3次レイモンド・スコット・クインテット結成。
同年、レコードレーベル「マスターレコード」を設立。

1949年 40歳。世界で最初のエレクトロ楽器「シンセサイザー」の設計着手。同年、レイモンドはバレエ曲「Six Characters in Search of an Author」を作曲。同年、ハリウッド映画『ノット・ウォンテッド』音楽担当。

この年、唯一の兄弟だった兄マークが心臓麻痺で亡くなる。享年49歳。

1950年 41歳。朝鮮戦争が始まる。米国NBCテレビの「あなたのヒットパレード」のバンドリーダーをつとめる。このテレビの仕事は 1950年代を通して続けられた。

それまで生放送だったテレビでは、この年から声と演奏を録画や録音して放送するものとなっていく。

同年、ジェームス・キャグニーとドリス・デイ出演のハリウッド映画「ウェストポイント・ストーリー」の作曲。

同年、ラッキーストライク(煙草)のためのジングル「ビー・ハッピー、ゴー・ラッキー」作曲。

同年、「オートマチック・スキャニング・ラジオ」を発明。米国特許を公表。

同年、バールと離婚。

1951年 42歳。カーネギーホールでのリサイタル『バイオリンとピアノのための組曲』。同年、商業音楽の会社『ジングル・ワークショップ』を設立。

1952年 43歳。歌手のドロシー・コリンズと再婚。

同年、シンセサイザー「クラヴィヴォックス」の発明を開始。

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▲ レイモンド・スコットが発明した最初期のシンセサイザーといえる「クラヴィヴォックス」。

同年、世界初のマルチトラック・テープレコーダーを2台製造。

同年、第4次レイモンド・スコット・クインテットを結成。

1953年 44歳。電子楽器のシーケンサー(規則正しく電子音を連続演奏させる機械)の発明。

同年、サウンドトラックの会社「レイモンド・スコット・エンタープライズ社」を設立。

レコーディング磁気ヘッド装置( Magnetic Recording Head Mounting Apparatus )が米国特許 2783311号を取得。

磁気テープレコーダーのためのセレクター装置( Indexing and Selector Device for Magnetic Tape Recorders )が米国特許 2779826号を取得。

1954年 45歳。レコードレーベル『オーディオヴォックス・レコード』設立。

同年、シンセサイザーの創始者ボブ・モーグと会い、共同でシンセサイザーの開発にあたる。この協力関係は 15年に及んだ。

1955年 46歳。アルフレッド・ヒッチコック監督『ハリーの災難』の音楽を作曲。

1956年 47歳。電気的に演奏するシーケンサ付き電子楽器「クラヴィヴォックス」  ( Clavivox ) が、米国特許 2871745 を取得。

1957年 48歳。フィルムとテレビ映像に音楽をシンクロさせる「ヴィディオラ」( The Videola )を発明。 同年、スティーブ・マックィーン主演のハリウッド映画『 ニューヨークの顔役 / Never Love A Stranger』の作曲担当。




(ここまでです)

知らずに訳していたのですが、ちょっと言葉を失う部分がありますね。

マルチトラック・テープレコーダー、モーグ博士とシンセサイザーの開発・・・。
うーむ、このあたり、どうにも説明しかねますが、少しずつ今回の分の「スゴさ」というものを書けるといいと思います。

やっぱり、人類史っていうのは、「誰か」がいるもんなんだなあ・・・と、しみじみと感じます。
偉大とか何とかいう話ではなく、「誰かいる」と。

このシリーズをはじめてから、人類がこの世に「存在している理由」のひとつが少し見いだせています。