レイモンド・スコットが封印を解いた天使のラッパ - Vol.2

レイモンド・スコットのキャリア(前半)


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大衆音楽から出発することの重要性

レイモンド・スコットという人のことを紹介していますが、私自身、この人のひとを知ったのがつい数日前ですので、まだ何も知らないのですが、今年2012年は、レイモンド・スコットの音楽がこの世に出て 75周年なのだそうです。

今回は、こちらのサイトレイモンド・スコットの詳細な「年表」がありましたので、これを訳してご紹介しようかと思います。

ところで、その前に、(同じような試みをしていた人は他にもいたのに)どうして、レイモンド・スコットに興味が出たのかというのは、彼が「大衆音楽家」だったからです。

あれは私が小学生の低学年の頃だったか、私の田舎の北海道の小さな町に、誰だったか定かではないのですが、都はるみとかそのあたりの女性演歌歌手の大物が「この町に来る!」ということになったのです。1970年代の初めの頃だったでしょうかね。

そりゃあ、もう大人たちは大騒ぎ。

まだ私のバアチャンあたりも健在で、その世代の人々がいた頃です。

「チケットはどこで買うんだい」、「おばあちゃんは脚が悪いから行くのはやめたほうがいい」、「いーや、あたしゃ絶対に行く。脚が折れても連れてっておくれ」


と、どこもここも大騒ぎで、その日が近づいてくる。

そして、コンサートは心臓麻痺で亡くなる老人もなく、無事に終わり、今度はそのコンサートの感想が飛び交う。

「あー、やっぱり本物はきれいだねえ」、「まさか◎◎さん(一緒に来ていた他の歌手)の歌も聞けるなんて」、「司会もよかった。あーよかったよかった」


何が言いたいのかというと、「これが大衆音楽」なんです。

・提供する側は相手を喜ばせるという目的がある

・そして、受けるほうはそれを喜ぶ


という関係です。

「喜ばせる対象と、喜ぶ人たち」という関係性が存在するのが大衆音楽であって、大衆音楽とジャンルは関係ないのです。

上の例では演歌でしたが、たとえば、デトロイトあたりの地下クラブで轟音でノイズ系ハードテクノを演奏するDJの音楽も、「それを聞いて踊りたい人たちを喜ばせている」という部分がある限り、大衆音楽で、その意味では、

・演歌もフォークもハードテクノもヘヴィメタルも子どもの歌も全部同じ

と言えます。
大衆音楽にジャンルは存在しません。

ここにこだわる理由としては、後期のレイモンド・スコットのような「実験的な音」の手法は、当時のクラシックや「芸術家」のフィールドでも多く見られたからで、それらと区別したいと思ったのです。

そのことに少しふれておきます。

クラシック界での方向

クラシック、あるいは「芸術」畑では、いくらでもそういう人はいましたが、たとえば、有名なところでは、ジョン・ケージという人や、スティーブ・ライヒという人がいました。ジョン・ケージはその音楽を動画で貼っても仕方ないので、 Wikipedia から文字で抜粋しますと、たとえば、



(ジョン・ケージは)1950年代初頭には中国の易などを用いて、作曲過程に偶然性が関わる「チャンス・オペレーション」を始め、貨幣を投げて音を決めた『易の音楽』(1951年)などを作曲。演奏や聴取の過程に偶然性が関与する不確定性の音楽へと進む。 やがて、それまでの西洋音楽の価値観をくつがえす偶然性の音楽を創始し、演奏者が通常の意味での演奏行為を行わない『4分33秒』(1952)などを生み出した。 『4分33秒』は、曲の演奏時間である4分33秒の間、演奏者が全く楽器を弾かず最後まで沈黙を通すものだ。




読んでおわかりかと思いますが、「音楽の意味性」としては大きくても、そこに「喜ぶ人が不在である」という事実を見いだせます。

つまり、これは音楽ではあっても大衆音楽ではないのです。

さらに、1950年代にニューヨークのジュリアード音楽院で音楽を学んだスティーヴ・ライヒという人も、極めて実験的な試みをおこないます。下の音楽は、スティーヴ・ライヒが1965年に発表した事実上の彼の最初の作品です。テープに延々と人の声を繰り返し録音再生(サンプリング)したものです。

スティーヴ・ライヒ/イッツ・ゴナ・レイン(1965年)



こちらはジョン・ケージよりも大衆音楽に近い部分はありますが、しかし、それでもこれらは、ジョン・ケージの音楽同様、所詮、「左脳の音楽」であることは否定できません。「誰が喜んでいたか」というあたりも当時は曖昧でした。

大衆音楽の意味の根幹は「左脳の思考から離脱して、音楽本来の楽しみを多くの人々で共有する」ところにあると私は思っています。

三波春夫の歌を聴きながら、「ああ、楽しいねえ」と手拍子を打つオジイサンおばあさんの頭の中に、「リズムと同期して手拍子を打つ方法の理論的展開」を考えている人はいなかったと思います。そして、それがファッキン・ライト!

音楽家は左脳を吹き飛ばして頭半分で歩いているくらいでいいのだと思います。

そんなわけで、今回はレイモンド・スコットさんの経歴。
ところで、訳していて初めて知ったのですが、レイモンド・スコットも上のスティーブ・ライヒと同じジュリアード音楽院を卒業していました。

結構長いものですので、今回は彼が 1946年にマンハッタン・リサーチ社を設立するまでです。

(ここからです)




Timeline (compiled by Jeff Winner)

レイモンド・スコットのタイムライン

1908年から 1946年まで
 ジェフ・ウィナー著

1908年 9月10日。ニューヨーク・ブルックリンに生まれる。

1914年 5歳。第一次世界大戦が始まる。

1921年 12歳の時に、最初の「オーディオ研究所」を作る。

1924年 15歳。プロのピアニストの職を得る。この年、初めて曲を作曲する。曲のタイトルは「牛のポートレート」( Portrait of a Cow )。

1927年 18歳。ブルックリン実業高等学校を卒業。

1929年 20歳。ウォール街で株価が暴落し、米国は大恐慌に突入し始める。米国大統領にフーバーが就任した年。

1931年 22歳。ジュリアード音楽院を卒業。

1934年 25歳。CBSラジオの局内のバンド「ザ・インストゥルメンタリスツ」( The Instrumentalists )を結成し、そのピアニストになる。レイモンド・スコットの最初のヒットシングルとなる「ハーレムのクリスマスの夜」を収録。この歌は後にルイ・アームストロングによって演奏された。

1936年 26歳。パール・ジムニーと結婚。一男一女を授かる。この年、音楽会社「サークル・ミュージック」を設立。

1936年 27歳。最初の「レイモンド・スコット・クインテット」を結成。メンバーは、バニー・ベリガン、ジョニー・ウィリアムスなど。ジョニー・ウィリアムスは、ジョン・ウィリアムスの父。このクインテットで、「パワーハウス」( Poeerhouse )、「ザ・トイ・トランペット」( The Toy Trumpet )などのヒット曲をレコーディングする。



▲ レイモンド・スコット・クインテットの演奏。ピアノを弾いているのがレイモンド・スコットだと思います。曲は「パワーハウス」。

また、同年、デューク・エリントンのマネージャーのアーヴィング・ミルズと共に、コロンビア・レコードと契約を交わす。

1937年 28歳。レイモンド・スコット・クインテットでハリウッド映画に何本か出演する。

1938年 29歳。CBS ラジオの音楽プロデューサーとなる。

1939年 30歳。CBS ラジオの番組『あなたのヒットパレード』で、レイモンド・スコット・クインテットは毎週演奏をおこなう。

1940年 31歳。レイモンド・スコット・オーケストラを結成。

同年、電子音楽の研究の資金のために、レイモンド・スコット・オーケストラでツアーを始める。また、アメリカのバレエ劇場のための作曲も始める。さらに、バンド「ノベルティアーズ」( Noveltees )を結成。

同年、ジョージ・パル監督のパペット・アニメ映画のサウンド・トラックでレイモンド・スコットの音楽が使用される。
この頃から、レイモンド・スコットは「静かな音楽」を模索し始める。

1941年 32歳。日本軍による真珠湾攻撃。米国は第二次世界大戦に参戦。米国大統領はルーズベルト。レイモンド・スコットは、フランク・シナトラや、ペリー・コモなどとの共演が続く。同年、バンド「ザ・キャプティベーターズ」( The Captivators )を結成。

1942年 33歳。ジョン・ハモンドを通じて、世界で最初のすべての人種が混合するネットワーク・スタジオを設立。ベン・ウェブスターやチャーリー・シェーバーらがいた。同年、第2次レイモンド・スコット・クインテットを結成。また、レイモンド・スコット・オーケストラの2年間にわたるツアーが始まる。

同年、CBS ラジオの音楽ディレクターになる。バンド「レイモンド・スコット&シークレット・セブン」を結成。バンドにはコージー・コールなどがいた。

1943年 34歳。アニメ映画「バッグス・バニー(Bugs Bunny)」で、ワーナー・ブラザーズ社は公式に、レイモンド・スコットの音楽12曲を使用することを発表。同年、バンド「ザ・ソフィスティケーター」( 'The Sophisticators )結成。

1944年 35歳。ラジオ番組『レイモンド・スコット・ショー』が始まる。

1945年 36歳。第二次世界大戦が終戦。新しいメンバーによるツアーを始める。
ハリウッド映画「ロザリタの鐘」の音楽を担当。ブロードウェーの舞台「Beggars are Coming to Town」の音楽監督。

1946年 37歳。ユル・ブリンナーとメアリー・マーティン出演のブロードウェイの舞台「リュート・ソング」( Lute Song )の音楽を担当。

同年、エレクトロニクス会社『マンハッタン・リサーチ社』を設立。





(ここまでです)

それにしても、想像以上にものすごい経歴ですが、ただこれを見ても「どうして電子音に引きつけられたのか」の部分はあまりハッキリしません。

1940年に「電子音楽の研究の資金のために、レイモンド・スコット・オーケストラでツアーを始める」とあり、この30歳頃にはヒットソングと平行して、どうやら「趣味」として電子音楽に興味を抱いていた感じはあります。

ジキルとハイド・・・。ブロードウェーのミュージカルソングを作りながら、頭の中で下みたいな音楽を作るチャンスを淡々と狙っていたと思われるレイモンド・スコットさん。かっこいい。

レイモンド・スコット/リズム・モジュレーター(1950-60's)



いい人生だなあ。